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2018年 古典で遊ぼう

 2018.6.17 百人一首 86番            西行法師(1118~1190)西行ほど波乱万丈の人生を送った人はないのではないかと思います。時代も平家から源氏へ激動のさなか、すべてを捨てて出家しても歌を捨てることなく我が道を貫いた人です。
69歳で徒歩で奥州平泉まで勧進の旅をしているのも驚きですが、彼しかいないと推薦されるのも人徳でしょう。
 
     
佐藤義清(のりきよ)父方は藤原氏
武士の家系。紀の川に広大な田畑を
持つ裕福な家。
18歳で兵衛尉 に任ぜられる。
母は当代きっての風流人源清経の娘。
20歳で鳥羽院北面の武士となる。
十代のころから徳大寺の家司(ひつじ)と
して務めていた。
23歳で突然出家した西行は諸国行脚
をしながら歌人達に高い尊崇を受けた。
待賢門院璋子の子、崇徳院に生きている内は会うこと叶わず、崩御後、讃岐を訪れ
その霊を
お慰めしたいと鎮魂の歌を詠んでいる。
ふりにけり君がみゆきの
鈴の奏は
いかなる世にも絶えず聞こえて
 嘆き悲しめと言って、月は、
私に恋の物思いをさせるのだろうか
。いや、そうではない。それなのに
月にかこつけがましくこぼれる
私の涙であることよ。

悲しみながらも無情をなその人を
恨みきれずに自己の愚かさを
嘆くわたしであるよ。
23歳で妻子を捨て出家。法名は円位
 鞍馬・嵯峨・など京周辺に庵を結ぶ。
26歳東北の旅で各地の歌枕を訪ね
歌を詠む。)その後、高野山に入る。

50歳中国・四国へ。讃岐で
崇徳院を慰霊する。善通寺に庵を結ぶ。

原平争乱のさなか、伊勢に移住。
焼き討後の東大寺再建の勧進を
依頼され69歳の西行は再び東北へ。
奥州の藤原氏(西行は同族)
の元へ勧進の旅をして砂金2万両を得て東大寺の復興に貢献している。

500年後、松尾芭蕉は西行の心境を
「五月雨の振り残してや光堂」
詠んでいる。芭蕉は西行を尊敬し
その足跡を辿っている。



     
西行の出家の理由は色々言われるが
1つには徳大寺の璋子様への恋のためで、高貴な方に「阿漕の浦ぞ」と言われて
思い切り、出家を決心したというのである。
この人は鳥羽天皇の后、待賢門院璋子。

伊勢の海あこぎが浦に引く網も
たびかさなれば人もこそ知れ


伊勢神宮へ捧げる神饌の漁場である
阿漕の浦で密漁をしていた漁師が
度重なり発覚して海に沈められた
という古歌にかけて、逢うことが
度重なればやがて人の噂にのぼるであろう
と注意されたというのである。
西行の有名な歌。
願わくは花のもとにて
春死なむ
その如月の望月のころ

旧暦でちょうど3月の終わりで
歌人たちは みな感動して
この歌が西行の辞世の句と
後の世に伝えられていますが
風になびく富士の煙の
空にきえて
行方も知らぬ
我が想いかな
我が第一の自賛歌であると西行は
言っていたそうですから
こちらが辞世の句ではないでしょうか。
西行は自分が望んだように桜の花の下で大往生を遂げました。晩年
自分の歌を右左にわけて
歌合わせする(競わせる) 自歌合を
『御裳濯河歌合』(みもすそがわ)
完成させる。判詞は
藤原俊成。伊勢内宮に奉納する。
同じく「宮河歌合」を編み、
藤原定家に判詞を依頼し、
伊勢外宮に奉納される。
西行は藤原定家の歌の師でも
あった。

河内の国,弘川寺に庵を結び翌年73歳
で寂す。
 20180329  百人一首 85番           俊恵法師 (1113~没年不明)源俊頼の子。
 
     
東大寺の僧といわれる。
俊成、清輔とも交流があり
優れた歌人、歌論家であった。 
一晩中、無情な人を恋うて思い嘆いている。
夜もなかなか明けないで寝室の板の隙間
からも朝の光が洩らず、
思いやりのないことで
あるよ。 
男が女性のもとに通う(妻問い婚)の
時代であっては、訪れない男の無常さに
女性は不安であったことでしょう。 
微妙な女ごころにふれて妖艶な
歌ですね。お坊さんが作る歌とは
思えませんが・・・。
2018.3.29   百人一首 84番            藤原清輔朝臣 (1104~1177) 
   
藤原顕輔の子。父とは不仲であったが、弟の家重、顕照らとともに家業を発展させた。
辛く苦しい現実に対するささやかな慰めを見出して、現在のこころの支えにするという。 第67代三条天皇の
心にもあらで浮世にながらえば 恋しかるべき夜半の月かな 
を思わせる歌ですね。
藤原俊成に対峙して古い歌の家、六条家の歌学を興した人。『続詩歌 しょくしか』の選者となったが、
二条天皇の崩御(二三歳で病死)によって勅撰集に加えられなかった。そういうことも嘆きの一因
だったのかもしれませんね。