佐藤義清(のりきよ)父方は藤原氏
武士の家系。紀の川に広大な田畑を
持つ裕福な家。
18歳で兵衛尉 に任ぜられる。
母は当代きっての風流人源清経の娘。
20歳で鳥羽院北面の武士となる。
十代のころから徳大寺の家司(ひつじ)と
して務めていた。
23歳で突然出家した西行は諸国行脚
をしながら歌人達に高い尊崇を受けた。
待賢門院璋子の子、崇徳院に生きている内は会うこと叶わず、崩御後、讃岐を訪れ
その霊を
お慰めしたいと鎮魂の歌を詠んでいる。
ふりにけり君がみゆきの
鈴の奏は
いかなる世にも絶えず聞こえて |
嘆き悲しめと言って、月は、
私に恋の物思いをさせるのだろうか
。いや、そうではない。それなのに
月にかこつけがましくこぼれる
私の涙であることよ。
悲しみながらも無情をなその人を
恨みきれずに自己の愚かさを
嘆くわたしであるよ。
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23歳で妻子を捨て出家。法名は円位
鞍馬・嵯峨・など京周辺に庵を結ぶ。
26歳東北の旅で各地の歌枕を訪ね
歌を詠む。)その後、高野山に入る。
50歳中国・四国へ。讃岐で
崇徳院を慰霊する。善通寺に庵を結ぶ。
原平争乱のさなか、伊勢に移住。
焼き討後の東大寺再建の勧進を
依頼され69歳の西行は再び東北へ。
奥州の藤原氏(西行は同族)
の元へ勧進の旅をして砂金2万両を得て東大寺の復興に貢献している。
500年後、松尾芭蕉は西行の心境を
「五月雨の振り残してや光堂」と
詠んでいる。芭蕉は西行を尊敬し
その足跡を辿っている。
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西行の出家の理由は色々言われるが
1つには徳大寺の璋子様への恋のためで、高貴な方に「阿漕の浦ぞ」と言われて
思い切り、出家を決心したというのである。
この人は鳥羽天皇の后、待賢門院璋子。
伊勢の海あこぎが浦に引く網も
たびかさなれば人もこそ知れ
伊勢神宮へ捧げる神饌の漁場である
阿漕の浦で密漁をしていた漁師が
度重なり発覚して海に沈められた
という古歌にかけて、逢うことが
度重なればやがて人の噂にのぼるであろう
と注意されたというのである。
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西行の有名な歌。
願わくは花のもとにて
春死なむ
その如月の望月のころ
旧暦でちょうど3月の終わりで
歌人たちは みな感動して
この歌が西行の辞世の句と
後の世に伝えられていますが
風になびく富士の煙の
空にきえて
行方も知らぬ
我が想いかな
我が第一の自賛歌であると西行は
言っていたそうですから
こちらが辞世の句ではないでしょうか。
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西行は自分が望んだように桜の花の下で大往生を遂げました。晩年
自分の歌を右左にわけて
歌合わせする(競わせる) 自歌合を
『御裳濯河歌合』(みもすそがわ)
完成させる。判詞は
藤原俊成。伊勢内宮に奉納する。
同じく「宮河歌合」を編み、
藤原定家に判詞を依頼し、
伊勢外宮に奉納される。
西行は藤原定家の歌の師でも
あった。
河内の国,弘川寺に庵を結び翌年73歳
で寂す。 |