2,017.12.29第83番 皇太后宮大夫俊成 (1114~1204)91歳まで生きた長寿の人。藤原定家の父。 |
|
|
|
中世和歌の理念となる幽玄の美を提唱した
代表的人物。勅撰集入集歌は415首にのぼる。
後鳥羽院 より九十賀の宴を賜る。
ながらへてけさやうれしき老いの波八千代を
かけて君に仕ふる |
この世は辛さから逃れる方法は
ないものだ。深く思いつめて分け入った
山の奥にもやはり、悲しみはあるようだ。
わびしさをつのらせるように鹿が鳴いて
いるよ。 |
この歌は俊成27歳の時の作。親しかっ
た西行の出家はこの年にあたる。
若いとき大病をして出家、(釈阿)と
名乗る。崇徳院に述懐の歌
(心中の思いを述べる)を100首お見せ
して崇徳院歌壇で名を上げていく。
|
|
2017.12.29 第82番 道因法師 (1090~90歳過ぎまで長生きしたといわれる。) |
|
|
|
俗名藤原敦頼。壮年期の動向は伝わっていない
。 晩年に至ってから歌壇での活動が盛んになり、
数々の歌合わせに出詠した。没後、千戴集に
20首もの歌を採られた。編集者藤原俊成の夢に
現れて、涙を流して喜んだのを哀れがり、
最初18首だったのを2首加えて20首にしたという。 |
つれない人を想い嘆き悲しんで
それでもやはり、死にもせず命は
あるものを、辛さにこらえきれない
のは、涙であるよ。 |
我執の強い人であったようである。
62歳のとき、刃傷沙汰に会い
ひん死の重傷をおった。それ以後、
自由人として和歌の道に励んだ。
80歳で、なお、秀歌をよませたまえ
と住吉神社へ月詣でしたといわれる。
|
|
2017.12.29 第81番 後徳大寺左大臣 藤原実定 |
|
|
|
ホトトギスの鳴声に、はっと姿を追って今一声を期待したが、ホトトギスの姿は無くて、ただ、夏の短夜の明け方の月だけが空に残っていたよ。 夏の暁の情景、気分を巧みに表現している。 |
|
右大臣公能(きんよし)の一男、藤原定家とは従弟になる。姉妹達が天皇の後宮 にいたために家運は隆盛した。
非常な蔵書家で、才学に富み、管弦や今様にもすぐれた。西行、俊成、源頼政ら、多くの歌人との交流がある。 |
2017.10.24 第80番 待賢門院堀河(12世紀前半の人) 右大臣藤原顕房の孫。父は歌人で名高い顕仲。 |
|
|
|
末長く愛してくださるあなたの、お心も推し量れずに、お別れしたばかりの私の心は黒髪のように思い乱れて悩むのですよ。 |
崇徳、後白河両天皇の御生母待賢門院に使えて、院が出家 した時、従って自分も出家した。
父も姉妹たちも優れた歌人である。
作者は西行とも親しく、出家後は仁和寺に住んで西行との歌のやり取りなどでも知られている。
ある月の美しい夜、訪ねると約束していた西行が寄らずに通り過ぎて行ったと聞いた堀河が詠った歌。
西へ行くしるべとたのむ月影のそらだのめこそかひなかりけれ
極楽浄土へ案内してくださると頼みにしていたのに、通り過ぎるとはなにごとでしょう。かいの無い人ですね。
西行の返し。
さしいらで雲路を過ぎし月影はまたぬ心ぞ空にみえける
門の中へ入らなかったのは、あなたが少しも待っていない気配が月明りの空に見えたからですよ。
二人は真面目をよそおいながら、お互いに余裕をもって歌で笑談しているのがおもしろいです。
|
|
2017.10.24 第78番、源兼昌。 |
|
|
|
淡路島へ飛び交う千鳥がもの悲しくなく声で幾夜、目を覚ましたことであろうか。わびしく暮らす防人よ。
冬の海を連想させるもの悲しい詩であるが関守の身を想う情感があふれる歌である。
|
|
第79番、左京大夫顕輔。 |
|
|
|
吹く風にたなびいている雲の切れ目から刺し零れてくる月の光の何と、清々しくきよらかなことだあろうか。
雲の影に隠れがちな月が一瞬姿を現すと、幻想的な美しさである。秋の情趣を伝えている。
|
|
2017.10.15 第77番 崇徳院 鳥羽天皇の第1皇子として生まれるも、その実はおそらく鳥羽天皇の祖父、白河法皇の子であると
言われている。鳥羽天皇との確執から、皇位を巡る争いが続きやがて保元の乱がおこる。 |
|
|
|
下の肖像画、生母待賢門院 璋子と白河法皇との間に生まれる。鳥羽天皇にとっては白河法皇は祖父にあたるため
崇徳院を叔父子と言い、嫌った。白河院が亡くなると、鳥羽天皇は崇徳院を
あからさまにいじめる。 |
浅瀬の流れが早いので、岩にせき止められた急流が2つに別れても
また、下流で会うように我々二人も今は仲を割かれても、再び 将来会おうと思うよ。 |
実の父といわれる白河院の保護のもと、
寵愛され5歳で即位する。幼少より和歌を好み、
藤原忠道、俊成らを
中心とする歌会を頻繁に催した。 しかし、白河院
亡きあとは皇位を奪われ保元の乱
「平家と源氏の争いの源になる戦」を
起こし敗れて流される。その地で無念の死を遂げる。 |
|
|
|
白河法皇に幼いころより愛され、そのお種を宿したまま鳥羽天皇に嫁がされた。わがままに育てられた彼女はその後もトラブルメーカーであったようである。 崇徳院を生んだ後皇子四人、内親王二人産んでいる
又、熊野詣も度々白装束で出かけている
鳥羽天皇の護持僧の行尊が熊野詣に同行していたといわれる。「法金剛院蔵」 |
白河院の子堀河天皇は賢主の誉れが高かったが、 28歳で亡くなった。鳥羽天皇は堀川天皇の第1子。15歳の時祖父の白河法皇のお下がりの璋子を
いただくことになった。 |
明治時代になって、明治天皇の発案で
祟りをおこされないようにと国家事業として白峰神宮が
建てられた。崇徳院は実に705年目に京都に祀られることになった。(今出川堀河北)この土地を
寄進したあすか井家はもともと、蹴鞠の家だったので
今ではサッカー選手がお参りに訪れるという。
下の図。
|
|
|
|
崇徳院は讃岐に流され、松山(坂出市 )
配所に移される。8年後、1164年同地で
崩御、白峰御陵に埋葬された。
綾家の保護を受けて子供も二人生まれたが、男子は殺されたようである。
浜千鳥 跡はみやこにかよえども
実は松山に音をのみ鳴く |
皇位をめぐって崇徳院の実の子が即位すると思われたのに
弟(近衛院)が即位し、法王になる道も閉ざされた。
近衛院が若年で亡くなると同母の弟である後白川院が皇位につく。父鳥羽法皇が亡くなると一挙に恨みが爆発。保元の乱の引き金を引くこととなる。 |
崇徳院は讃岐から返り咲く機会が無くなると、その後は
髪も髭も剃らず、爪も切らず、生きながら
天狗の姿になったという。荒々しい声で非道の
呪いを企てて「三悪道」地獄道、餓鬼道、畜生道に
写経を投げ込み大悪魔になるという誓いを
たてたという。後にもろもろの怨霊を鎮める時に
崇徳院と追号された。(平家滅亡のころ」
|
|
2017.7.3 第76番 藤原忠通(1097~1164)保元の乱で弟、頼長と争う人です。 |
|
|
|
関白太政大臣藤原忠実の息子。
40過ぎまで男の子供がなかったので
23歳年下の弟(藤原頼長)を養子にする。
が、40過ぎてから子供に恵まれる。 11男に
13歳で出家した慈円がいる。この人は第95番
おほけなく浮世の民におほふかな
わが立つ袖に 墨染の袖
の人である。兄達は「五摂家」という身分で
近衛、九条、は今、現在も残る。
|
海原に、船を漕ぎだしてあたりを
見渡すと、空の雲と見分けが
つかないような沖の白波であることよ。
久方は空の枕詞、雲井とは天のこと。
書家として三蹟、仮名文字「法性寺流」いう
1派を立てたほどの文化人であった。
この人の文は国宝に指定されている。
合わせて自宅に歌会、歌合を開催し
自らを中心に歌壇を形成した。
漢詩にも優れ「法性寺関白集」がある。
|
弟の頼長を溺愛する父と対立し、
1度は養子にした弟の頼長と
争うことになる。
後白河天皇と崇徳上皇の
対立から起こる保元の乱で
は親子、兄弟が敵、味方に
別れてあらそい、平家源氏の
戦う時代が幕をあける。
元はと言えば、白河天皇が
院政で実権を握り過ぎたことで
息子の鳥羽、孫の崇徳院の間に
深い傷を負わせたことに
他ならない。
|
|
2017.7.3 第75番 藤原基俊(1060~1142) |
|
|
|
藤原道長のひ孫という名門の
血筋でありながら、低い官位で
おわる。。兄達と何かの反目が
あったのかもしれない。 息子を
興福寺の講師にと、藤原忠通に
頼んでいたが、
だめだったようです。
|
お約束くださった(講師)にさせようという
恵の露のようなお言葉を命のように
大切にしていましたが、ああ・・・
後に出てくる法性寺入道(藤原忠通)に
願いをだしていたが、
今年の秋も(むなしく)過ぎていくようです。
とても、息子が可愛かったようで
修行をしている寺の永縁僧都に付け届けや
和歌を送って息子を頼むとも言っていました。 |
和歌のライバルである源俊頼は
(百人1首第74番の人)です。
親友の彼のひきててもあり次第に
認められるようになる。
古い歌集から学べという
伝統を重んじる人でした。
1138年、出家して法名覚俊を名乗る。
その頃藤原俊成(当時25歳)を入門させる。 |
|
|
2017.5.15 第74番 源俊頼朝臣(みなもとのとしよりあそん)(1055~1129) |
|
|
|
父は大納言経信「夕されば門田の稲葉
おとずれて芦のまろやに秋風ぞ吹く」の
作者です。俊頼の子供の俊恵法師は、
「夜もすがら物思うころは明けやらで閨の
ひまさえつれなかりけり」の作者で
百人一首に、親、子、孫と三代が選ばれる。
【俊頼髄脳】という歌学書を書く。
詞より心を重んじた。
白河院の院宣により俊頼が編纂したのは
金葉和歌集。
七四歳で亡くなる前に一六〇〇首の歌、
散木奇歌集を出した。全部自作の歌で
自筆であったといわれます。
|
私に無情の人を、初瀬の山おろしよ、
もっと激しく吹けとは祈っていないのに
益々、あの人はつれなくなってしまった。
初瀬の観音様にお願いしていたのに
あの人は冷たくなってしまったではないか。
西国三十三か所参りの八番目の寺。
日本で一番大きい木造の十一面観音
初瀬寺【長谷寺】は会いたい人に
会わせてくれるというので
平安時代の女流歌人なども
よくお参りしたそうです。
|
性格は内気で官僚としては才が
無く、和歌と楽才で内裏歌合の
宴游の場に呼ばれていた。
次第に歌人としての名声が
あがる。、和歌の指導者として
多くの歌合で判者を勤めた。
堀河天皇の召されて
百首歌を命じられる。
木枯らしの雲ふきはらう高嶺より
さえても月のすみのぼるかな
|
|
2017.3.31第73番 前中納言大江匡房(おおえのまさふさ)(1041~1111)一条天皇の頃の碩学、大江匡衡(おおえのまさひら )が曽祖父、赤染衛門が曽祖母。赤染衛門が晩年、この曾孫の誕生を喜び、大江家の学問の隆盛を託したという逸話が残っている |
|
|
|
幼いころより、聡明で四歳から漢文、
八歳で「史記」「漢書」を読みこなす。
十六歳で文章生、東宮学士として
三度も天皇の家庭教師として
後三条天皇、白河院、堀河院に仕える。五六歳で
大宰府へ赴任。地位を利用し莫大な資産をなしたといわれる。
学才は菅原道真の再来ともいわれ、この人が
道真を学問の神として信仰した最初だといわれる。 |
高い遠くの山の峰の山桜が咲いて
いるよ。里に近い山の霞よ、どうか
たちこめないでおくれ。桜が見えなくなるから。
外山とは里山のこと。
一見平凡そうであるが、ゆるみのない品格のある
古来、「長高き歌」と評されている。
|
当時、1つだけあった大学に合格し、
文章生 (もんじょうしょう)となる。
ここまでの学生には菜料、油料という給料が出た。
今でも給料といいますね。
|
|
2017.3.31第72番。祐子内親王家紀伊(ゆうしないしんのうけのき)生没不明ではあるが1030年代の生まれと推測され
代々の天皇の皇女達に仕え、当時の花形女流歌人で会った。 |
|
|
|
後朱雀天皇の皇女祐子内親王の女房。
女房36歌仙の1人。
兄の重経が紀伊守であったことから紀伊
と呼ばれた。 母は歌人で名高い
一宮の小弁。母の才能を引き継ぎ
名だたる歌合わせに出詠している。 |
評判の高い高師浜のむなしく打ち寄せる
波にうっかり袖を濡らすまいよ。
袖が濡れてはこまりますもの。
噂に高い浮気な貴方を心にかけて
したいますまい。うっかり慕って
後で悲しみの涙に袖を濡らすようなことに
なっては困りますもの。 |
「艶書合」 (懸想ふみあわせ)
恋歌を競う歌合わせです。
男性が
人しれぬ思いありその浦に
波のよるこそいはまほしけれ」
荒磯の浦に寄せる波のように
夜にはあなたのもとへ行きたいものです
それに対しての返歌です。 |
|
2017.03.20第71盤大納言経信(つねのぶ) (1016~1097 )詩歌のほかにも母の影響で琵琶,琴にも優れていた人です。 |
|
|
|
目の前の景色をさわやかさという
実感で表現しています。目
で見て肌で感じる感動が伝わり
ます。頭で作った歌ではないと
いうことが分かります。
博学多才で、詩歌管弦、特に
琵琶に優れていたそうです。
|
夕方になれば家の近くの田の
稲の葉にさわさわと葉ずれの音が訪れて
葦ぶきのこの仮屋にも
秋風が吹いてくるよ。
かすかな動きも新鮮な秋の
響きとして感じている。素直な歌です。
|
このころからわびさびの世界感が始まりました。
中世の始まりです。 院政を開始した白川朝
では冷遇され、晩年の堀河天皇の代には
歌壇の重鎮として歌合わせの判者を務めるも
時代の過渡期にいた歌人と言えるでしょう。
息子の俊頼、孫の俊恵と3代で百人1首に入集
しています。 |
|
2017.03.20 第70番 良暹(りょうぜん)法師 生没不明。990~1060頃。比叡山天台宗の僧侶。
哀愁を詠う三夕(さんせき)の歌の一つとして有名です。 |
|
|
|
母は藤原実方の童女と伝えられている。
後朱雀天皇、後冷泉天皇の時代の
歌壇では大いに活躍した。
僧侶の自由な立場で上流貴族や著名歌人
とも活発に活躍したであろうと
思われます。 |
寂しさに住まいを出てあたりを
しみじみと眺めてみると、慰めになる
ものも無くいずこもわびしい秋の夕暮で
あることよ。 |
晩年には大原に隠遁,その寂しさ
から、百人1首が生まれた。
後の西行などの中世歌僧の
先駆けとなる世界を切り開いた
ひとです。 |
|
第69番 能因法師 (988~?)俗名は橘永愷(ながやす)橘忠望の子。 13歳ごろから大学に学ぶが、官途に望みが持てず
和歌や風流に生きる傾向があり出家した後、、歌人として名高い藤原長能に弟子入りする。 |
|
|
|
橘忠望の子である。父が53歳の時
生まれる。父が亡くなり年の離れた
長兄の養子となる。その兄も亡くなると
次兄の元愷の養子になったという。
結婚もして子供二人も出来たが、
妻の急死で世をはかなみ、、幼い
子供二人を兄に託して出家する。 |
激しい風が吹いている御室の山もみじは
竜田川の川面に浮かんで
丁度錦織のようであることだなあ。 |
摂津の国、高槻に庵を結ぶ。そこを拠点に
旅し、奥州、伊予、美作などに足跡を残す
。ことに陸奥旅行での詩が有名。
「都をば霞とともにたちしかど
秋風ぞふく白河の関」
都にいる時にできた詩だけど
陸奥の国に行って出来た歌だと偽って
半年ほど家から出ず、日焼けもして
陸奥の方へ修行の旅で作ったと披露した。
面白い人ですね。
|
馬のバイヤー説。
能因が住んでいた
高槻の古曽部「こそべ」という所に
牧場があったという。彼の歌には
馬の歌が多くあることから、
あちこち、特に奥州へたびたび
行ったのは馬の買い付け
に行ったのではないかという説がある。 |
師として仰ぐ藤原長能に
「和歌はどのように読むべきや」と
問うと師は次のように云はく。
「山深み落ちてつもれる紅葉はの
かわける上に時雨降るなり。
かくの如く詠むべし」 |
能因は小食であまり食べず、菜「おかず」
をあまり食べないのでよく見ると
紙に包んだ 粉のようなものを
ごはんに振りかけて食していたという。
今のふりかけ、携帯食だったそうです。
よく旅をする人ですから便利だったことでしょう。 |
心あらむ人に見せばや津の国の難波 わたりの春のけしきを
「大阪湾の難波潟を心ある風流な人にこの春の景色を見せたいものだ。どんなに感激するだろうか。すばらしいこの景色を。」
この歌を本歌取りしたのが西行法師です。
津の国の難波の春は夢なれや蘆の枯れ葉に風渡るなり
かつて能因法師が詠んだ難波潟に私は来ているが、春の霞む景色は今は蘆が枯れて
風が渡っている冬枯れの景色。時代が変わって能因法師が詠んだ難波の春は夢だったのだな。
さらにこの西行の歌を本歌取りしたのが豊臣秀吉です。
露と落ち露と消えにし我が世かな難波のことは夢のまた夢 |
|
2017.1.8 第68番 三条院
従弟の一条天皇が即位した時、皇太子に立てられたが、二六年にわたって皇太子として
耐え忍んでくらしました。自分の孫を天皇にしたいと願う藤原道長に露骨な嫌がらせをされました。 |
|
|
|
冷泉天皇の第二皇子。病身である上に
重い眼病を患っていた。藤原道長は
三条天皇に冷たく,補佐しなかった
ため、在位五年で、我が子敦明親王
を皇太子に立てることを条件に 譲位
した。しかし、道長は自分の外孫、敦成親王
を、わずか、四歳で皇位につかせ、
敦明親王は圧迫されて辞退させられた。
我が子までも軽んじられさぞ、
悔しかったことでしょう。 |
不本意にも、辛いこの世に
生き永らえていたなら、その時には
きっと、恋しく思うに違いない
この美しい夜中の月であることよ。
在位の間、天に彗星が現れ、内裏も
二度も消失、災害は天皇の不徳と
言われ、退位においやられた。 |
皇女の偵子(ていし)内親王を大変
可愛がって、幼い内親王の髪を
手探りして『可愛い子の髪を見られなく
て、つらい、残念だ。』と嘆いて涙を
落としたそうです。
藤原道長の圧力の元、
四二歳で亡くなって、もっとも苦しまれた
お気の毒な天皇でした。 |
|