2015.10.30 百人1首 第58番 大弐三位(だいにのさんみ)本名は賢子(けんし)999年ごろの生まれ。80歳以上の長寿を保つ。
母は紫式部。父は藤原宜孝。 母方には、藤原兼輔。父方には藤原定方と文雅の士が多く、和歌の才能を受け継ぐ。性格的には
内省的な母、紫式部より外交的な父宜孝の血を多く受け継いでおり、多彩な恋愛関係に彩られた華やかな人生を送った人です。
強運な人でのちの後冷泉天皇の乳母になったり、結婚した相手は財力を持ち、自由に筑紫の国から京の宮廷の歌会に出席して
外交的にふるまったそうです。 |
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父、宜孝は常識を破って派手な格好で
吉野の金峯山寺にお参りして話題に
なったそうです。御嶽精進のため
の白装束ではなく、金色の上着、白い
シャツ、紫の指貫(パンタロン)。息子も
上着は赤、シャツは青、水干(袴)は
はでな柄、でした。藤原道長は『面白い』
といって引き立ててくれたそうです。
このことは清少納言が「枕草子」119段
「あわれなるもの」に書いていますが
まさか、紫式部も結婚前の夫のことが
このように書かれていてびっくりした
のではないでしょうか。 |
有馬山から猪名の笹原に風が吹くと
そよそよとなびきますが、それですよ。
心が揺れて心もとないのはあなたです。
私はあなたを忘れましょうか。忘れはしませんよ。
かれがれなる(疎遠になる)男の人に対して
軽くいなして言い返しています。やんわりと
断っています。
下は荒涼」とした笹原と猪名川の風景です。 |
2歳で父、宜孝に死なれますが、母の
実家の庇護の下に成長しました。父の
性格に似ていたようで 、中宮彰子様
の元へ上がると、水を得たように
貴公子たちの求愛を受け、艶聞に
事欠かない宮廷生活を送ります。未婚
で藤原通兼の息子、兼隆の子を(娘)
生み、天皇の第1子、後冷泉天皇の
乳母に上がると出世して典侍
(ないしのすけ)という地位をもらい、
藤三位といわれた。その後、
高階成章(たかしなしげあき)という
人と結婚すると、夫が大宰大弐という
地位になり、大弐三位と呼ばれる。
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母、紫式部が幼い娘が病にかかって
いる時、詠んだ歌です。
若竹の生いゆく末をいのるかな
この世をうしといとうものから
幼い我が子の病の祈願を唐竹という
細い竹を花瓶にさして、女たちが
必死に祈ってくれている。子の母は
世は無常だと常々思っているのに・・ |
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彼女は夫の財をふんだんに使いながら
瀬戸内海を航海して都の歌合わせに
度々、出席して和歌を詠んだそうです。
そのころ、中国との密貿易で大宰府の
高官は財をなしたそうですから、彼女は
強運な女性ですね。
その時の歌。
往きとてもおもなれにける船路に
門司の白波こころしてこせ
度々筑紫の国から門司を通って都へ
往復している時、波が荒いのを
歌っている。
おもなれにけるとは
なれているという意味です。 |
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2015.10.5 前回の第57番、紫式部の2回目です。学者の家に生まれ、当時、女子では学ばなかった漢文の文献もすらすら読めたそう
ですが、ひけらすことなく、むしろ、引っ込み思案で人見知りする人でした。夫と死別後、当時の権力者道長に皇后彰子様のもとに
宮仕えを勧められる。道長の援助の元、文才は順調に花開き、完成した「源氏物語」は大変な評判になりました。一条天皇も朗読をお聞きになり、『この人は、にほんき(日本書紀)をよく読んでいる』とおっしゃったそうです。「日本紀の御局」というあだ名がついたそうです。内気でやや鬱ぽい紫式部はさぞ、面映ゆいことだったでしょう。 なお、2枚の挿絵は「林 和清先生の2年~20回で読む
[源氏物語]のパンフレットより頂きました。光源氏が凛々しく美しいですね。 |
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紫式部日記。一条天皇の命で彰子様
出産の模様を記録した日記。
道長は吉野の金峯山寺に娘、彰子様の
懐妊祈願のお経を収めました。効力があり彰子様、ご懐妊されました。無事に男児が生まれるよう加持祈祷する様子、陣痛
が始まると白い几帳(カーテン)を回らし
お産には物の怪が取りつくというので少女を身代わりに打ちすえて、失神させ、物の怪から妊婦を守ったそうです。女房達は徹夜でお祈りをして興奮状態。その場にいた人、44人と冷静に観察する紫式部でした。
目も腫れ涙や汗で崩れた顔の女房達
の様子、ブスな私はもっとひどい顔でしょうと、華やかな幸せの場に私はなぜか沈み込んでしまいます。と言っています。
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身の憂さは心のうちにしたひきて
いま九重ぞ思いみだるる
このような華やかな宮中にいても、身の中に持つ憂鬱が私の心を乱すのです。
水鳥を水の上とやよそに見ん
われも浮きたる夜をすぐしつつ
水鳥はうれいもなく水の上にいるのではない水の下では必死にかいているのだ。
私も欝々と眠れぬ身が苦しいのです。
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源氏物語
光源氏の若かりし時代から巡り合った女性
との華やかな人生物語。紫式部は感受性の強い人でジーッと人を観察する感覚が鋭く
人間の心の奥底にある心理を筆が走るままに書き記すのでした。
文才あふれる紫式部ならではの大作ですが、この世はめでたし、めでたしで終わるはずが無い。と光源氏が破滅していくところ、見せかけの幸せで終わるはずがないという
ところを書きたかったのでしょうか。
1人の女性としてどのような幸せを求めて
いたのでしょう。
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2015.8.26 百人一首 第57番 紫式部 (970~1019ごろ)藤原為時の娘。曽祖父は堤中納言(藤原兼輔)。ひい爺さんです。
加茂川沿いのお屋敷は東の境界が賀茂川堤だったので堤中納言と呼ばれました。そのお屋敷で紫式部は生まれました。
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紫式部集には夜半の月影とかかれていますが、
百人一首には夜半の月かなとなっています。
【言葉書き】には
友達に対して読んだ歌。子供のころからの友達
に久しぶりに会ったのに、また、友達は親の赴任
でどこかへ行ってしまった。あわただしくそんなに
会えないまま別れて悲しい。雲に隠れてしまった
夜中の月のように去ってしまった友よ・・・ |
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祖父や伯父らも歌人であり、
漢詩の大家であった父は
紫式部が男の子であったならと
嘆いた程、覚えが良く聡明な
文学少女であった。花山天皇
の側近であった父が失脚 した
ので婚期がおくれ30歳で親子ほど
歳の離れた藤原宜孝に求愛
され、1人娘の賢子をもうける。 |
地味な文学少女であった紫式部に対して、父ほど歳の離れた夫、藤原宜孝は派手な人であったそうですが、
天然痘で急死してしまいます。残された娘、賢子(大弐三位)だいにのさんみは 父親似で派手な人だそうです。
乳飲み子をかかえて苦労していると、藤原道長に宮勤めを勧められ、紫式部と呼ばれるようになったのです。
社交的でなかったため、人間関係で大変苦労したそうです。しかし、文才は道長の援助もあり順調に開花し
完成した「源氏物語」は大変な評判になり、時の一条天皇や藤原公任にも愛読されたそうです。
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2015.7.29 百人一首 第56番 和泉式部1000~生没年不詳大江雅致(まさむね)の娘。両親とも冷泉天皇皇后に仕えていたので
和泉式部も宮中に馴染み、シンデレラコンプレクスがあったと思われる。和泉守橘道貞に嫁して小式部を生むも,
宮様との恋の噂,幾人かの男性の噂も気にする様子もなく、夢見る乙女のような恋多き女流歌人であった。
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生きてはいないかもしれない死後の、
あの世での思い出として、
もう1度、あなたに会いたいものです。
夫の元を離れると、父親にも勘当されるが、
冷泉天皇の皇子の為尊(ためたか)親王と親密に。
為尊親王が24歳で天然痘でなくなると
1年も経たぬ内に弟宮、敦道(あつみち)親王と
親しくなり恋多き女性といわれる。
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死後を感じ取った作者の、来世でも
なお恋つづけるであろう 強い意志。
和歌史上、もっとも情熱的な
歌人である。
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この歌に歌われる恋人ははたして
誰であろうといわれるが、敦道親王との
147首にも及ぶ贈答歌を自伝的に綴った。
この歌も若く亡くなられた 敦道親王を恋い慕う
歌であろうと思われる。
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為尊親王に死なれて孤独と思い出に沈んでいる和泉式部のもとに、為尊親王の弟君、敦道親王から一枝の橘が届けられた。
皐月待つ 花橘の香をかげば 昔の人の袖の香ぞする (古今和歌集の中の有名な歌)
和泉式部は歌を返してお使いの舎人童(少年の家来)に持たせる。
かおる香に よそふるよりは ほととぎす きかばや同じ声やしたると
花橘の香に亡き宮様を偲ぶより 御兄弟だから同じ声かとあなたの声をききたいのです。
敦道親王の返歌
同じ枝に鳴きつつおりし ほととぎす声は変わらぬものと知らずや
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敦道親王は親しくなった和泉式部を(召人)として家に引き入れ妻は怒って出ていってしまう。スキャンダルメーカー と
都中で噂される。やがて、敦道親王も病気で死去。嘆きつつも才能のある和泉式部は中宮彰子様のサロンで過ごすが、
恋の噂の絶えない女性だった。さらに藤原保昌に嫁して丹後の地へも下る。初めの夫の間に生まれた娘が小式部内侍。
小式部内侍の歌
大江山 いく野の道の遠ければ まだ文も見ず 天の橋立 |
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2015.5.5 百人一首 第55番 大納言公任(だいなごんきんとう)966~1041、76歳にて没。昔の人にしては長寿です。円融院が大井川で船を浮かべて、和歌、漢詩、管弦の宴を楽しんだ時、公任は才能を認められ「三船の才」と称賛された。 |
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三条太政大臣頼忠の子。円融天皇」の御前で元服。
待望の男子で祝福を一身に受けて
順調な位階の昇進を見る。 |
滝の音は絶えて聞けなくなって長い年月が経ってしまったが、その名高い評判だけは知れ渡っていまだに聞こえていることですよ。
(滝、たえ)のた、(なりぬれ、名、
流れ、なほ)のなと音を重ねて技工
的で巧みである。 |
姉の遵子(じゅんし)が円融天皇の中宮になって一家は得意の絶頂だった。
しかし子供が無く、ライバル藤原兼家の娘、詮子が皇子を産んだことで不遇の時代を迎えた。やがて和歌や漢詩の才能を認められる。
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嵯峨院の庭園に設けられた人口の滝。
今は大覚寺にある大沢池の湖畔に石碑が立っている。 |
兼家の天下になり、不遇をかこつが、状況を見極め兼家の子、道長に接近し、和歌の才能で文化の第一人者となった。
清少納言、紫式部、和泉式部ら女流歌人から和歌の名人と尊敬される。
【上の図は私が2013年5月、三船祭りを見物に行った時のものです。】
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円融院大井川へ御御幸の折、船に漢詩、和歌、管弦それぞれ名人が乗り込む。
浮かべられた船でいずれも公任は才能を発揮し、「三船(さんせん)の才」と称賛された。
和漢朗詠集、金玉集、新選髄脳などの著書がある。
公任が選んだ「三十六歌仙」は後世に大きな影響を与えた。
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2015.2.22 百人一首 第54番 義同三司母 生没未詳。藤原兼家の長男道隆の妻。 名は貴子(たかこ)長男は藤原伊周。
義同三司とは息子伊周(これちか)のために作られた官名。 |
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藤原道隆に求愛され、幸せの絶頂で歌った愛の歌である。娘の定子を一条天皇に原子を三条天皇に嫁がせ、息子藤原伊周(これちか)は准大臣(義同三司)と幸せな結婚でした。
中の関伯家といわれたが、夫道隆が43歳で亡くなと勢力争いに敗れた息子の流罪で悲しみの中に亡くなる。
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貴方は決して忘れないよと言われますが、それは難しいことでしょうから、(そのお言葉をお聞きした幸せな)今日を限りに死んでしまいたいものでございますよ。 |
道隆の死後、弟、道長の手に政権が移る。うって変わって、栄華から没落の悲劇が始まる。長男の伊周が権力奪回を試みるがことごとく失敗、定子は無理に出家させられる。定子にお仕えした清少納言は中関伯の栄華を随筆文学『枕草子』にか書き残している。
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