2016.12.25 百人一首 第 67番
周防内侍(すおうのないし)後冷泉、後三条、白河、堀河、鳥羽天皇と歴代の天皇につかえた。都合五代の帝に
仕えたことになる。 |
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本名は平仲子。母が後冷泉天皇の
女官。彼女も後冷泉天皇に出仕を始め
後三条天皇にも出仕を請われる。その後も白河、堀河朝に使えた。
鳥羽天皇にも仕えたので
都合五代の天皇に仕えたことになる。
生粋の宮廷人として華やかな人生を
送ったことでしょう。
晩年は出家してお寺にこもったそうです。
住みわびて我さへ軒の
しのぶかたがた
しげき宿かな
母やはらからも亡くなり、心細くなって寺へ
行って仏などの供養をしていると
家も処分してしまおうと柱に書付ましたよ。 |
月の明い夜二条院で人々と語らって
、「枕はないものかしら」と、言ったところ、大納言藤原忠家が自分の
腕を差し出して
「これを枕に」と言ったことに対して
詠んだ歌だそうです。
かりそめに手枕を借りたばかりに
つまらない浮名を立ててしまって
なんとも、くやしいことです。 |
父は和歌六人党の一人。周防守
平棟仲。父の才能を受け継いだ
のでしょう。多くの歌合にも出席し、当代一流の歌人でした。
多くの人々と交際し、恋の歌も多くある
が、夫や子供の記録はない。
70余歳で没したらしいです。
名誉も財産も十分に持って
いたはずの彼女も晩年、
病気になると心細くなった
ことでしょう。
かくしつつ夕の雲と
なりもせばあわれかけても
誰かしのばむ
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2016.10.25 百人一首 第66番
前大僧正行尊(さきのだいそうじょうぎょうそん) 天喜3年~長承4年。81歳で没。当時では長生きです。
天皇家の血筋ながら、父(基平もとひら)の代より源氏を名のる。10歳で父を亡くし、後朱雀天皇の女御延子(えんし)の
養子となり手厚い保護を受ける。12さいで出家。 |
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12歳で出家し三井寺(園城持)に入る。
頼豪(らいごう)阿闍梨に密教を学ぶ。
その後、大峰、葛城、、熊野で厳しい
修行を積む。 後、都に呼ばれ加持祈祷
する。鳥羽天皇が幼き頃、病を治し以来
鳥羽天皇の護持僧となり支えた。
尚、行尊が先達となって熊野詣が盛んになったといわれている。京の都からも貴族達
がはるばるやって来て行われるようになった。
吉野山へ庵を結び、大峰山で修業をした
西行は行尊の業績を想い、感涙にむせんだといわれる。
あわれとて花見し峰に名を留めて
紅葉ぞ今日は共にふりける 西行 |
私がそなたをなつかしむようにそなたも、私をなつかしいと思っておくれ
山桜よ、今そなたのほかに私の心を
理解してくれる人もいないのだから。
大峰山で修業をして、偶然見た山桜に
共感を抱かずには いられない孤独な心情。 |
山で修業を終えた頃、歌人としての名がたち、都の歌合わせにも
出吟している。以後、白河院や
皇族のひとびとの病気平癒に
数々の功績あり、朝廷の尊敬
を受けた。亡くなられる時、
「長秋記」に臨終の様子がある。
阿弥陀仏に向かい、五色の
糸を手に持ち、念仏を唱えな
えつつ、居ながらにして
死す。
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2016.9.30 第64番 権中納言貞頼(995~1045)と、第65番 相模(生没不詳 )です。このお二人は
恋愛関係にありました。 |
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和歌の大御所、大納言藤原公任
の子、容姿端麗、和歌、書道に
優れたもてもて男子だったそうです。
順調に出世し、宮中の女性との恋愛
もお盛ん。相模とも親密でした。
闘病ちゅう、、塩湯治に出かけた折の歌。
沖つ風夜はにふくらし難波潟
あかつきかけて波ぞよすなる
51歳で病死します。 |
山の合間を縫うように流れる
宇治川の川霧が夜明けのほのかな
明るみに揺らぐのはいかにも幻想的である。
季節、時間、情景、場所が良く分かる
叙景歌ですね。 |
和泉式部の娘、小式部内侍とのやり取り。
母和泉式部が丹後にいる時、歌合に
選ばれた小式部内侍をからかった。
「母君が不在で心細いですね。
歌の相談に使いをやりましたか?」
それに対して小式部内侍はとっさに
大江山いく野の道の遠ければ
まだ文も見ず天橋立
と貞頼の袖を押さえて詠んだといわれる。 |
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酒呑童子の源頼光が父か、養父。
夫の役職相模守 から、相模と言われる。
結婚生活は子が無く離婚。
子を願う歌を詠んでいます。
光あらん玉の男子見てしがな
掻き撫でつつも生ほしたつべき
宮中に出仕し、歌人として名声も高く、
藤原貞頼の求愛を度々受けました。
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冷たい男との恋で、悲しいのに
浮名のために ダメになってしまいそうな私の名。
なんともまあ、惜しいことですよ。
五月雨は美豆(みず)の御牧の
真菰草かりほすひまも
あらじとぞ思ふ
幼いころ淀の牧場のある美豆という
ところで育ったそうです。 |
恋愛をたくさんしても実りのある恋ならば
どんな評判をたてられても耐えられるものを・・・
そんな気持ちを逆説的に訴えている
妖艶の美が感じられます。56歳で出家。
推定64歳で亡くなったといわれる。
歌人としては和泉式部、能因法師、
源経信らと交流をもった。和歌の指導的
立場でもあった。
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2016.08.22 百人一首 。第63番 左京大夫道雅(みちまさ ) 992~1054
伊勢神宮の前斎宮であった当子内親王が都へ帰京。密通がばれて三条院の怒りにふれ左遷される。 |
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中関白道隆の孫。祖父に
溺愛された、お坊ちゃま貴族。
父伊周「これちか」が花山院に
対する不敬罪で左遷され
以来、中関白家は没落していく。 |
三条院の娘当子内親王と密通し、
厳しく仲を隔てられ、左京権大夫に
左遷されてしまう。
「貴方のことをあきらめようと、せめて
直接お話したいのに」禁じられた悲恋の歌です。 |
典型的なダメ貴族のようで乱交の噂が
絶えなかったようでした。「悪三位」とも
称されたそうです。いつの世も
溺愛されて、大人になってから
失敗する人いますね。 |
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百人1首、第62番 清少納言 「春はあけぼの」で始まる『枕草子』の筆者。
父も曽祖父も歌人。機転のきく明るい人で和歌、漢詩にも秀でた才女であった。敬愛した中宮定子様に
愛され、7年ほどの宮中での生活、見聞きしたこと感じたことを書き留めた。鴨長明「方丈記」吉田謙好の
「徒然草」とならぶ「日本三大随筆」とされる。 |
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966年、父清原元輔が60歳ごろに生ま れた。
歌人の家系で幼いころから和歌漢文に親しみ15歳ごろに橘則光と結婚。息子則長をうむが離婚。しかし、
その後も親しく兄妹のように付き合ったといわれる。この元夫は夜盗を切り殺すほどの腕力を誇る人物だったそうで清少納言とは意外な関係ですね。 |
まだ夜明け前だというのに、鶏の鳴きまねで門を開けさすつもりでしょうが、逢坂の関はそうは簡単に開けませんよ。
まだ夜も深いのに言い訳をして帰っていく男に対して、またの訪れを やんわり婉曲に断っている気持ち。 |
990年ごろ、一条天皇の中宮で藤原道隆の娘、定子様に宮仕えする。美しく優しい中宮定子様の寵愛をうけ、生来の機知と豊かな教養が評判となる。 きらびやかな宮中の暮らしの中で定子様の生家の没落、定子様の死と清少納言は悲しみを乗り越えて涙を笑いにかえてプライド高く生きました。
非公開だった「枕草子」を左中将源経房が「これは面白い」と持ち出し、世間に広めたといわれる。
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雪のある日、炭櫃に火を起こし 、物語などして集っていると中宮定子様がおっしゃいました。
「少納言よ、香炉峰の雪、いかならむ。」と。すかさず、少納言が御簾を上げると定子様
は満足げに笑われたそうです。
唐の詩人、楽天白の有名な詩で皆知っているが、清少納言の機転の良さに驚いたそうです。 |
中の関白、藤原道隆が酒で病死すると、弟の藤原道長が台頭。定子様を皇后に、中宮の地位には我が娘、彰子をつけた。『一帝二后』 ごり押しですね。
一条天皇は定子様を愛し、敦康親王、
さらに二人のお子が生まれるも3人目の後産が出ず、定子様は24歳で死去される。
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中宮定子様の死後、宮中を去り、山里で暮らす。藤原棟世という20歳も年上の男性と
結婚、女の子を産む。夫が死ぬと 京都の山荘(月の輪)へ移り住む。今は泉涌寺という
お寺で尼となって定子様のお墓を御守したという。
60歳前後で亡くなったようです。
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百人1首、61番 伊勢大輔(いせのたいふ)989年ごろの生まれ。代々、伊勢神宮の祭主の家系で
祖父は大中臣能信(おおなかとみよしのぶ)、父も輔親(すけちか)も勅撰集に31首取られている歌人であった。 |
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1条天皇の時、奈良の古都から
平安の宮中に桜が奉られた。
桜をうけとる役を仰せつかった
作者の即吟の歌である。
紫式部が「取り入れ役」を新米の
伊勢大輔に 譲ったので
道長が『黙って受け取るものでは
ない』と言ったため、即、詠んだといわれる。 |
華やかな、昔の奈良の八重桜が
今日、(この平安の)九重(ここのえ)の宮中のあたりに確かに照り映えて
美しく咲いていますよ。
八重と、九重の対比が素晴らしい。
今日と京、九重とここの辺、などの
掛詞を1首におさめて、華麗な内裏と
華やかな八重桜の姿を反映させている
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お仕えしている彰子様がご病気の時
御祈願のため、清水寺の観音様に
もうでると、紫式部も居合わせて、
お互い、『同じ志ですね』と、言いあったことであった。
(こころざし君にかかぐるともしびの
同じ光にあふがうれしき)
紫式部が詠んだそうです。
それに対して伊勢大輔が詠んだ歌。
(いにしえの契りもうれし君がため
おなじ光にかげをならべて)
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中宮彰子 様のサロンには紫式部がすでにおり、興福寺から贈られた「奈良の八重桜」を取り入れる役を譲られた
エピソードは有名です。遅れてきた和泉式部とも仲良くなり、和泉式部から感謝される。十年ほどして高階成順の
妻となり、三人の娘をもうけている。娘たちはそれぞれ勅撰集に乗るほどの歌人となっている。
夫の死後、伊勢大輔自身も出家している。尼となっても歌人として活躍し、最晩年には
約170首の歌を歌集にまとめている。藤原氏最盛期に半世紀以上を宮廷社会に生きた聡明な人であった。 |
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百人1首、60番 小式部内侍(1000年ごろ~1025) 出産の直後に夭折している。母の
和泉式部のように、才能のある女性だったが、恋多き女性でもあるところが似ているようです。 |
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母は恋多き女性で有名な和泉式部
幼いころは父、橘道貞の元で養育されたが、
母との関係は良好であった。
母の宮仕えについて一条天皇 の后、彰子
(しょうし)様の女童としてあがる。
藤原道長の息子、教道(のりみち)の子を
産むも、男の子は寺に預けられ、(静円)
僧となる。次、女の子も産む。この子は
(公円法師)の母となる。
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大江山を越えて行き、生野を通って
行く道のりは遙かに遠いから、まだ
天の橋立の地も踏んでいませんし
、(母からの)文も見てはいません。
中納言定頼という方がやって来て
「歌会の歌はできましたか?母上が
不在でさぞ心細いでしょう。
お使いはやりましたか?」と
からかったので、とっさに答えた
歌だといわれている。 |
宮廷社会の水になじみ、数々の華麗な
恋愛遍歴をたどる。こどもを4人産むが
4人目の子を出産するときに命を落とす。
母、和泉式部は大変嘆き悲しみ、
歌を残している。
いかにせん 行くべき方も思ほえず
親に先立つ道をしらねば
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百人1首、第59番 赤染衛門 (961~1040ごろ)
母親が平兼盛と交際しながら後に、赤染衛門時用と結婚したので平兼盛は自分の子であると言って
裁判になったということでした。今の時代ならDNA鑑定をしてはっきりさせたのでしょうが、
赤染衛門が自分の子だと主張したのだそうです。彼女の文才は兼盛さんに似ていると言われたそうですが??? |
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女性の手による「栄花物語」歴史書の作者とも言われ、周りも認める良妻賢母の赤染衛門ですが 、
結婚後も大江為元(夫のいとこ)という恋人がいたそうで、晩年にいたるまでその関係は続いたという以外な
事実が分かっています。 |