戻る

2013年ゆらゆら

2013.12.12 クリスマスパーティ会場はお花でいっぱいです。今年で14回目、ななふくも10回以上参加していますが回を重ねるごとに増す
華麗さに感動を覚えます。井本さんはJPCに数回来られていますが、娘さんは我が家の娘と小学校の同級生ですので、娘の成長を
見届けるような気持ちです。今年も同じテーブルの方と「一期一会」のお出会いがありました。14ものテーブルに120個の生花を配し、
すべてプレゼントしていただけるので楽しみです。プリザーブドフラワーコンテストで会場にあふれる花々、デモンストレーションの生け花、南米のアルパという竪琴の美しい演奏をお食事とともに堪能しました。
2013,1122 秋の味覚、甘柿が今年もたくさん実りました。息子夫婦と私3人で頑張って収穫しました。
2013.10 今年も恒例の土作り。お天気のいい日に、古い土を全部出して消毒します。その後、いろいろブレンドして新しい土を作ります。
翌年の5月に美しい花が咲くのを待ちかねて楽しみにしています。毎年、腐葉土は家の柿の木の枯れ葉を使用するので買わずに済みます。
 腐葉土の作り方。
ポリバケツに(柿の枯れ葉、油かす、酵素、土と水を交互に混ぜ込んで密封する。)始めの数カ月は、ヘドロのような匂いがしますが、10か月以上経つと土になっています。とてもいい土の香りになるのですよ。不思議ですが自然界の神秘を感じる瞬間です。
2013.10.4   9月15〜16日。水俣を訪れました。 熊本が生んだ時代の先駆者、徳富蘇峰(1863〜1957)弟の文豪、徳富蘆花(1868〜1927)の生家を訪れてみました。
今年は蘇峰生誕150年の記念の年です。偶然にも今年のNHK【八重の桜】で知られる新島襄、八重とは生涯深い親交がありました。
徳富蘇峰は同志社に入学、新島襄から洗礼を受けています。新島襄亡きあとは八重を物心、供に支えました。生き方の違いから、絶縁していた弟、徳富蘆花は亡くなる前に兄に詫びて、『後は頼む』と託したそうです。蘇峰は明治中期のオピニオンリーダーとして活躍しました。23歳で「将来之日本」を出版、「国民之友」で森鴎外、二葉亭四迷、幸田露伴などを世に送り出しました。「国民新聞」を創刊して日本言論界に
不動の地位を築く。56歳からは【近世日本国民史】を寄稿。90歳の時、100巻を完成させました。享年94歳。 80歳の時でも180cmあったという体格、知れば知るほどパワフルな人物でした。なお、父の徳富一敬は横井小楠の高弟でした。祖父、美信の時代に南九州を旅した儒学者、頼山陽がこの家を訪問し、書を贈っています。「微力でも根気強く努力すれば大きなことを成すことができる」という意味の文字だそうです。ちなみに、頼山陽はこの旅で沢山の漢詩を作っています。詩吟で彼の詩を学ぶ機会がありますので身近に感じてしまいました。
湯の児温泉の「湯の児海と夕焼け」というホテルに1泊。ここは熊本の偉大なジャーナリスト、文筆家、歴史家徳富蘇峰がよく訪れた旅館を
建物まるごと保存しています。興味深く、見学しました。目の前の【不知火海】を見ながら展望浴場でのんびりしました。そのころ、大阪の平野あたりに大雨、洪水避難警告が出たとも知らず・・・。まあ、我が家は何事もなかったのでよかったですが・・・。
2013.9.24 熊本、水俣市立水俣病資料館へ行ってきました。水俣病は有名なチッソ工場による公害病です。胎児性水俣病はへその緒を通し
てメチル水銀が赤ちゃんの胎内に入ったもので公害のなかでも特殊なケースと言われました。
水俣病資料館は美しく整備された岡の上にあります。水俣病を風化させることなく、貴重な
資料を公開、保存して後世に教訓と経験を
伝えるために作られました。入館無料です。
隣の水俣病情報センター。水俣病受難者達の悲惨な公害が2度と起こらないことを願って体験や語り部講和で紹介しています。平成5年、オープン以来すでに73万人もの人が利用しています。海が見えます。 水俣病資料館の敷地内のホテイアオイ草が美しい池です。熊本では小学5年生は必ず、学校
授業で訪れるそうです。公害の恐ろしさ、被害者の方々の、差別された苦しみ、長引く裁判に
翻弄された時間、人間の命と尊厳を学ぶことでしょう。

水俣病が発生した不知火海は昔は豊かな海でした。海辺で人々はおだやかな生活を送っていました。しかし、チッソ工場が流した水銀を含む有害な排水によって汚染された魚を食べていた人々は段々体調が悪くなり、水俣病が発生しました。すぐに手を打たなかったために大変なことになりました。やがて国、県
市が原因を調べましたが、その間も排水は流れ続け、わかってからも流し続けました。
1908年、【明治41】チッソ工場が水俣に出来ました。科学肥料を始め、日本の主要な化学工場となり、戦後の日本経済をささえる企業となりました。工場の発展は町の発展でもあり、人工もふえて経済的にも社会的にも強く影響を受けていました。

チッソ工場の排水が原因とわかって、すぐ対策をとれば、被害は大きくならなかったでしょう。その後、チッソは2000億円もの
お金を払っています。1日1億、使っても
6年かかるのです。早め早めの手を打つべきでした。やはり、福島の放射能汚染のことが重なってみえます。失敗に学ぶべきです。
1932年(昭和7年)〜1968年(昭和43年)まで水銀を含んだ排水を流していました。ヘドロにふくまれる水銀の量は70〜150トンともいわれ汚染された魚がいたのです。熊本県は汚染された魚が出て行かないよう仕切り網を設置、23年間かかって487トンもの魚を処分しました。その後もヘドロをとりのぞいて護岸の内側に封じ込める埋め立て工事に14年かけ、
485億円かけて東京ドーム14個分の埋め立て地を作りました。今は環境と健康をテーマにした緑豊かな公園に整備されています。
この工場では主にプラスチックの原料を作っていました。私達の生活に欠かせない物ばかりです。そのため排水を止めるのが遅れ
公害が続き、被害が大きくなりました。豊かな
生活、便利さが優先され、被害者の救済は
後回しでした。
工業化により世界の先進国を目指す日本。
水俣の湾沿いに原因不明の患者が増え続けました。原因を疑われたチッソ工場はそれを認めず、昭和43年政府がようやく公害病と認め発表しましたが、被害者の戦いはこれから長く続きました。
水俣市立水俣病情報センターの語り部の部屋で折り鶴を折る孫です。裏には「好きなメッセージを書いて下さい」とあったのでそれぞれの想いを書きました。
今の福島の原発の危険性と重なってしまうのはいなめません。失敗に学びたいものです。
  過ちて改めざる。これを過ちという。
2013.09.03  8月8日、とても暑い日でした。近鉄八尾駅の近く、八尾プリズムの小ホールで八尾の消費者大会。式典の後、
八尾徳州会病院の酒井啓氏の健康についての講演を拝聴。その後、お楽しみのファッションショウーが始まりました。
大勢の方が参加、こどもさんから、お年寄りまで幅広く、さらに、3000円で供出して頂いた数点のウエデングドレス(とても豪華!)の
ファッションショウ(新郎役は市職員)まであり楽しい一時でした。ななふくが通っているリフォーム教室のメンバーさんも参加されました。
94歳の方は顕証寺でななふくと同じ檀家のお仲間です。とても、御元気な方で今も活躍されています。
2013.8.18  8月12〜13日富山の立山にペルセウス流星群を見に行き、トレッキングも体験しました。立山が文学の文献に登場するのは
「万葉集」からだそうです。  立ち山の行きしくらしもはいつきの 河の渡り瀬 鐙(あぶみ)浸かすも  大伴家持
 【立山の雪が消えて増水しているらしい。早月川の渡り瀬であぶみまで水にぬらしてしまった】 越中富山に赴任した家持が詠んでいます。
1日目の夜、星座の早見表を見て星座を勉強。11時から真っ暗な夜空を見上げて流星の観測が始まりました。私は北の空を担当。
ペルセウス流星群から放射状に流れる流星を発見したら、ガイドの方に報告します。『はくちょう座から西へ流れました。1等星(明るさ)です!』と報告します。が、それが大変。皆『わああ〜』とか『ああっ』とかいうばかりでうまく報告できません。50分観察、10分休息。次回には
観察者がぐっと減ってしまいました。寒さが半端じゃない、と引き上げて行く人や温泉に入ろうと退散する人続出。そんなわけで次回から40分観察、20分休息を繰り返します。午前3時まで観察を続けました。最後まで残ったのは私と2〜3人でした。1時間に60個〜70個の流星を
観察して願い事もたくさんしました。 天体望遠鏡で土星や、木星も見せてもらい、大満足でした。
2013.6.28〜29日お友達と京都へ出かけて一泊しました。50年目の同窓会です。
このところ、それぞれが孫の出産、また私の足の手術、
親の介護など次々あって揃って旅行ができませんでした。
京都なら、近くていざとなれば家に飛んで帰れる距離
ですので計画してみました。二八日はまず、三人で藤森神社。
泊るのは西本願寺の宿、ホテルです。和室と洋間の2間続き
の広いお部屋を用意してもらい、夕食は提携している向かいの
フレンチレストランを予約しました。
次々出てくるお料理もおいしく、お酒は自由にいただけます。
一人の方は高齢のお母様のことが心配というので泊れなか
ったのですが、ホテルで夜九時すぎまでゆっくり出来ました。
翌日は四人で祇園のほうへ繰り出しました。有名なカバン屋さん、
四条通りのお土産屋を散策。花見小路を南へいくと、建仁寺。
その中の両足院でお庭を眺めてしばし一服。昼食は京都の
旬のお料理屋さんでゆっくり二時間。その後知り合いの方の
お店でコーヒーを頂いてまた、一服。若くない50年前の乙女達
はあちこちで一服を繰り返しながら京都の町を楽しみました。
2013.6.18京都、建仁寺の中にある両足院と平安神宮へ行ってきました。両足とは阿弥陀様の慈悲と知恵のことだそうです。
方丈に阿弥陀如来をお祀りしている。周り廊下をめぐると回遊式のお庭に6月の今盛りの半夏生が見事です。 半夏生(はんげしょう)は6月に水辺に咲く
植物です。京都の蒸し暑さに清涼感を吹き込んでくれます。
ドクダミの仲間で葉の先が真っ白に
なります。両足院でしかこんなに群生
しているところはないそうです。
池の向こうにお茶室が見えます。両足院は龍山徳見禅師が開山しました。元に渡り、45年後に帰国。その時弟子としてついて来た林浄因という人が日本で初めて饅頭を作って広めたそうです。
境内の北側に毘沙門天。比叡山の焼き打ちの前に持ち出された胎内仏の毘沙門天(13cm)が縁あってここへ祀られています。
戦国時代の武将、黒田官兵衛の守護神で
大切にされていたそうです。
お昼、南座の前のレストランでランチを注文すると、京都らしくハモの湯引きが付いていてドレッシングで頂きました。コーヒーもついて980円でした。
平安神宮の應天門。(おうてんもん)
平安神宮は明治28年、平安京1100年を記念して京都の祖神として桓武天皇をおまつりしました。
桓武天皇とともに近代日本の基礎を作られた孝明天皇をおまつりしようとの声が上がり、皇紀2600年にあたる昭和15年御霊をおまつりした。この日は夏超大祓い(なごしのおおはらい)のカヤの輪が備え付けられました。半年のけがれを
払うことができるそうです。
京都の祖神、桓武天皇(第50代)
と明治維新の基を築かれた孝明天皇(第121代)のお二人をおまつりする。広大な境内には木津川の真白な砂がひきつめられています。
本殿に向かって左の神苑から入ります。本殿を囲むように4つのお庭が続きます。ここは中神苑の池です。龍が伏せたような石橋です。 かつて豊臣秀吉が3条大橋に作らせた橋の円柱を利用しているそうです。向こうに見える茶店で冷たいグリンテーを頂きました。 ごいさぎだそうです。真剣な様子で水面の
魚を狙っています。ここにいる鳥は幸せだなと思いました。ややずんぐりした体で眼が赤くて可愛かったですよ。
日本で初めて走ったと言う電車。南苑にありました。明治28年1月31日、京都電気鉄道
として走りました。愛されたチンチン電車は昭和38年には時代の流れとともに廃止されました。
本当に絵のように美しい景色です。バックに東山を配し、泰平閣といわれる優美な橋殿です。
池の周りを散策しているといつしかあの橋に
辿り着きます。
橋殿には長い木のベンチが両方に続き、人々は湖に浮かんでいるような気分でリラックスしています。下を覗くと亀や鮒がのんびり泳いでいます。とても涼しいです。
はぎが咲いています。1度落ちて秋に再び
咲くのだそうです。この庭の植物には名前と
供にゆかりの和歌などが添えられていて京都らしいなと感心しました。
アジサイが花を咲かせているのが上品です。
この苑には似合っています。
花菖蒲やカキツバタは盛りを少し過ぎていました。代わりに蓮がひっそり咲いていました。
2013.5.19 京都 嵐山の三船祭。5月の第3日曜日に渡月橋の上流(大井川)で、平安王朝の船遊びが再現されました。
宇多上皇が(898)年、嵯峨野に御幸されて船遊びを楽しんだのが始めと言われています。まさに時代は千年前、
百人1首の26番、貞信公の【小倉山峰のもみじ葉こころあらば今ひとたびの行幸またなむ】の世界ですね。昭和3年から始まった神事です。
京福電車でトコトコ、駅名も車折神社です。
普段は静かなところですがこの日は賑わっていました。
本殿で奉納の踊りがありましたが、
雨が降って来ました。この後、大井川で
船遊びが行われます。
舞いを奉納する乙女たちです。いずれも
美少女ですね。真ん中の2人は胡蝶の舞い
を披露しました。背中に羽を付けて踊ります。
いつも十万人の人出だそうですが今日は
雨です。お蔭で水際まで近づいて見ることが出来ました。
芸能の上達を願う人達も船を繰り出して
にぎわいます。23艘の船が出ていました。
雅楽を奏でる人が7〜8名、踊る少女が
4名乗っています。平安の装束をまとっています。
鮮やかな龍頭船が川を渡ります。対岸は
嵐山です。左に渡月橋があります。
優美に舞いを舞っている情景にしばし、
時間を忘れて見入りました。光源氏の舞いを見るようでうっとりです。
車折神社から送って頂いたうちわです。
京都の扇子屋さんが後援していますので船から扇子を流す行事も同時に行われます。
これはただで頂きました。(新品ではありませんが・・・」
渡月橋から北側を眺めると右に小倉山が見えています。亀の甲羅のようですね。
このあたりは亀山公園と言われています。
嵐山の地図です。船遊びは渡月橋の上流、で行われます。あたりは観光客でにぎわう所です。クリックしてみて下さい。
2013.05.18  ふくちゃんの1日。マイペースのふくちゃんは目新しい物を見つけると必ず、チェックします。
2013.5.7
甘夏のマーマレード。  今が盛りの甘夏。おとらちゃんに頂いてそのまま食べていましたが、さらに買い足してマーマレードを作ることにしました。確か、れいちゃんも4月にHPで紹介してくれましたので参考にさせてもらいました。皮は2度、ゆでこぼしてさめたら刻みます。果実も
入れました。出来上がりに上等のブランデーを隠し味にちょっと入れると香りがよくなります。翌日の朝食にマフィンにのせて食べたらしっとりと美味しくてハッピーでした。
2013.4.26 鰹節を【おカカちゃん】で削ってお味噌汁を作りました。氷カキのような道具です。よければ、ななふくの家の料理もご覧ください。
20年ぐらい前のものですが壊れもせず
今も使えます。円盤に櫛形の歯が3カ所
に付けられていて、削ることができます。
本枯れ鰹節を今から削ります。すごく
堅い鰹節ですが、ハンドルをくるくる
まわすだけです。さあ、どうなるかな。
はい!見事に削れました。香り豊かなおいしそうな削り鰹節が出来ました。
時間は3〜5分です。
ふんわりと細かく削れました。ホウレンソウにかけても美味しそうです。 鰹節はかび付きの本枯れ節で最高品です。ちなみにこれは私のいとこが製造したものです。ふるさと、枕崎は鰹節が名産です。 細かいのでパックに入れて今から味噌汁のダシを取りましょう。
ある日のメニュー。ひれかつ2枚【パン粉無し】、ポテトサラダ(新ジャガと新たまねぎとキュウリ。たまねぎはポンズに浸して味付けしますのでマヨネーズは少しでOK!)いかの照り焼き。玄米酵素と塩分控えめ梅干しと生湯葉入り味噌汁です。白いのは生湯葉で、とうふではありません。 ある日のメニュー。 ぶりの照り焼き、筍とわかめのたきあわせ。(筍はゆでた物を頂きました)いつもの玄米酵素と大きな梅干し。わかめの味噌汁です。玄米酵素は娘の勧めで、専用の炊飯器を買いました。高圧で保温するので1週間OKでしかも栄養素が増します。堅く無くておいしいです。 ある日のメニュー。大虎のてんぷらに三つ葉の卵とじをのせました。食べ飽きた
ぶりの照り焼きを焼き直してほぐしてポンズであえたもの。いつもの玄米酵素と梅干し。生湯葉いりのお味噌汁。豆乳のせいで白っぽくなっていますが、まろやかですよ。
2013.4.15 ファッションショーを見てきました。京都の「京都市役所前」地下鉄東西線の地下ゼスト御池で開かれていました。
【私の着物から私の服を私が作って私が着ます】というキャッチフレーズに引かれました。沢山の人に見られる
ストリートファッションショウーですが、皆さん注目を浴びても、堂々としていて見ている方もハッピーな気持ちになりました。
紫の地に柄が浮き立って綺麗です裾が軽やかです。 羽織から作った落ち着いたケープ付きのワンピースです。 鮮やかな訪問着の柄が全面に。ボレロで上品になります。およばれにもいいな。 大柄の模様がモノトーンの組み合わせで生きてきます。
上には着物の幅でショールに。袖のようにカフスをつけてはおると1枚のワンピースに見えます。 同色のインナーを中に着ておしゃれなスーツになりました。 柄が亀甲でモダン。色を合わせた長めショールでおしゃれです。素材は銘仙だそうです。 後にいる方がご主人です。なんと、奥様のために服を作りたいと
挑戦してみごとにツーピースを作ったとか。
男物の羽織の裏。個性的な柄を後に持ってきています。薄く綿を入れています。 ロングのワンピース。ゴムが通してあるので丈を調節出来ます。 ひった絞りの羽織で。軽くて暖かくて柄もステキです。
ケープのような上着。裏には鮮やかな紫を配して。ちらっと見えるのがいいです。
大きな菊の模様。大正時代の着ものだそうです。パーテーに着て行けますね。ハイウエストで切り替えています。 中に着ているのは派手だけど身ごろの左右を黒で切り替えています。その上から黒のコートを羽おっています。 着ものを解いて幅をそのまま縫っているだけのブラウス。首の所を開けて被って着ます。 派手な柄ですが中の一色のコートと合わせて着ると落ち着きます。
今ではなかなか作られない古典柄の古布。 ステキな古布で作ったベスト。
大切にしたい日本の柄です。
紬のリバーシブルのコート。襟や袖口の変化でいろいろに着れます。刺子でしっかり仕上げています。 裏を着たところ。ポケットは斜めに貼り付けて周りをトリミングしています。
紬の柄をパッチワークで入れてモダンなジャケットに仕立てています。 日本手ぬぐいを横にして上下に3枚つなぎあわせています。9枚あれば出来きます。透けないのに涼しくて重宝します。 左の方はふんわりケープのように仕立てています。右の方は短めの上着とワンピースです。腰の所でゴムが入っているので好きに調節出来ます。 紬に紫の上品な柄が入っています。スカーフの色が引き立て役です。
2013.0319 我が家の大切なななとふくです。ななは15歳、(大型犬なので人間でいうと90歳だそうです。)ふくは12歳です。
        お蔭様でとても元気です。私の大切なパートナーとして存在感が大きいですよ。
2013.2.24    5年前に夜店ですくって、我が家のペット12番目になったテン2号ちゃんが大人になりました。2日前に水を替えたのに
          水が白く濁っています。どうなったのか?と驚きました。 なんと、卵をびっしり産んでいます。お相手のオスがいないので
           孵化しない卵はすぐ、除去しないと・・・・。水の質が悪くなりますので大急ぎで掃除しました。
2013,0218 詩吟の吟行会で1月27〜28日、南淡路と四国、鳴門市へ旅行しました。
淡路パーキングエリアで昼食後、静の里へ。没後、一条中納言の庄園のあるこの地に埋葬された静御前はここに眠っているとか。横には義経の墓まであります? 戦乱の世に源義経の恋人として
哀しくも強く生きた静御前をしのんで
整備された公園です。お墓の前で参加者90名で
静御前の吟を吟じました。
.黒岩水仙郷は海沿いの狭いところから急に登ると斜面に五百万本の水仙が咲いています。結構きつい坂です。ほのかに水仙の香がします。
美しい水仙と眼下にせまる海のコントラストが素晴らしいです。もっとゆっくり見たかったのですが、道が狭くて止まっていると
後がつかえてしまいます。
どこまでも青く、鏡のような海です。遠くに沼島(ぬしま)が浮かんでいます。この島には以前、伸介さんの番組で
TVで花嫁を募集した青年がいましたね。
約、180年前に付近の漁民が海岸に漂着した球根を山に植えたのが繁殖したそうです。
南淡路ロイヤルホテルの窓からみた
大鳴門橋です。高さ45mの橋を渡ると渦潮が白く渦巻いていました。バスの窓から見てもゾクゾクしました。
淡路島から、四国の徳島県は大鳴門橋を渡って行けるのですね。
徳島県には世界の名画を1,000点も陶板画にした大塚国際美術館があります。ゆっくり、時間をかけて見てみたいです。
四国霊場88カ所の第1番札所霊山寺に
お参りしました。朝早く、ホラ貝をふく信者さん、ご詠歌を歌う人など熱心な人々に出会いました。
すぐ近くの第二番極楽寺です。
石段を登って本堂に辿り着きます。
今は杖がなくても手すりを持てば
石段が登れるようになりました。
鳴門市には第一次世界大戦でドイツ領であったチンタオから日本へ捕虜として
連行された1000名の捕虜の収容所がありました。ここはドイツ記念館です。
収容所の名残はありませんがドイツ人の伝えた文化が残っています。
収容所では松江豊寿所長の管理の元、人権尊重と自主的な運営、地元との交流も盛んでした。
音楽ではベートーベン第九が日本初ここ
で演奏されました。ドイツの文化が伝えられました。
2013.2.5 横井小楠 (1809〜1869)肥後藩士、横井大平時直の次男として生まれる。熊本の沼山津に在る【四時軒】を
訪ねてみました。すぐ横を秋津川が流れ、水鳥がのどかに憩う田園風景の中に横井小楠の住居と記念館があります。
新政府の参与(大臣)として京都の御所に通う途中、攘夷派によって暗殺されました。改革を受け入れない人は何処にでも居ますね。かつて彼を参与に推薦した坂本竜馬もこの、二年前に暗殺されています。
藩から蟄居を命じられた小楠は四季を楽しむという意味で【四時軒】と名付け、ここ、沼山津に私塾を開いて門下の指導にあたった。 幕末の偉大な思想家で維新の青写真を描いた人です。歴史の表舞台にはあまり出てこないが、明治維新を縁の下から支えた人でした。 土手を歩いていると記念館と、住居があります。縁側がいつも開け放されていてどなたでもどうぞ、という雰囲気です。
坂本竜馬が勝海舟の勧めで三度も訪れた四時軒からの眺め、遠くに山々、手前に田園が広がっています。市内にありながら、のどかでタイムスリップしたような気分です。 此の客間は二度の火災にも残りました。ここに坂本竜馬、教育勅語の起草に尽力した元田永孚(もとだながざね)や
大日本帝国憲法の草案を作った
井上毅(いのうえこわし)もここを訪れています。
縁側は椅子が置かれ、のんびり景色を見ることができます。土手を通る人から
丸見えです。
明治維新に尽力した人々が小楠と会談
した当時もこうだったのでしょうか?
福井藩主、松平春嶽に請われ、四たびも福井藩の政治顧問として招かれた。その後も春嶽は幕府総裁職にあり、小楠思想を重要し、国是七条などの助言を受けた。松平春嶽の筆です。 初めは関学の朱子学、江戸遊学で水戸学、最終的に開国、通商、殖産、富国強兵へと改革実行を唱えた小楠のもとには維新の志士たちが訪れ、あるいは機会を得て会見を求め、激論したそうです。 小楠は肥後藩からは恐れられ、二度も江戸遊学から呼び戻されています。蟄居させられていた沼山津の家。維新の立役者である小楠もお膝元では持て余していたのでしょう。以前の四時軒です。
場所は今もそのままです。
五カ条の御誓文。天皇が、今までの封建性を改め広く人々とともに公正な新しい大革命を行うことを天地の神々や祖先に誓う決意を表明したものです。この誓文を起草した由利公正は小楠を師と仰ぎ、大きな影響を受けています。 小楠が日常に使ったお茶碗。ずいぶん
小さく思いましたが、お酒が大好きだったそうですからいいのかな。普段の小楠はこたつに当たりながら娘に論語の話をするような良いお父さんだったそうです。
阿蘇の伏流水の川が流れ、散歩していると、いろんな水鳥が見られます。土手も昔ながらの葦原があったりして四季を楽しんだ小楠の気持ちが分かります。天皇に召されて京都に行かなかったら暗殺されることもなかったでしょうね。
2013.2.4       熊本、上益城郡(かみましきぐん)にある通潤橋(つうじゅんきょう)を見学に行ってきました。6km離れた
笹原川から取り入れた水が白糸台地へ運ばれます。巨大な水道橋に圧倒されました。今から160年前に
総庄屋布田保之助の企画、石工達の技術、住民の献金、労働奉仕を結集して作られたものです。
有名な通潤橋の放水。土日、祭日の正午に15分、放水されるそうです。観光客にも人気がありそうですね。 
取り入れ口と吹きあげ口の高低差は
1.7mだそうです。 
左に登り口があり高さ21.43mの橋の上に行くことができます。此の橋を作るにあたって熊本城の石垣を参考にしたそうです。お互いに押しあって崩れないようになっています。 白糸台地に住む人々は,三方を川にかこまれていましたが、谷が深いため、その水を使うことができず水不足で大変困っていました。
阿蘇の南、山に囲まれたところです。もう少し東へ行くとそこは宮崎県との県境です。 水不足に苦しんでいた人々のため苦心の末、通潤橋を完成させた総庄屋の布田保之助の像。このような立派なリーダーがいたのですね。 登り口の横に(余水吐き)がまるでウオタージェットような勢いで下の五老ガ滝川へ流れています。滑り下りたらさぞ、
気持ちいいだろうなと思います。
76mの長さがあり向こう側へ行くことができます。水路全体長さは123.9mあります。 橋の中央の左右にある放水口です。ここから放水しています。下井手取り口に流れます。 眼下にはのどかな川と水田が広がっています。
資料館の前でゆるきゃらのくまもん
がお出迎えしてくれます。カヤを使って
作られているようです。
こうして下から仰ぎ見ると大きいですね。6000個の石が使われているそうです。
水の流れる石管は1つが1トン、642個
使われています。上井手取り口に水が運ばれます。
川には大きな鯉や、水鳥などもいて
パンくずをもらっています。
2013年 お年賀です。干支のお飾りは手芸用のロープを巳さんにしました。ななもふくも元気でお正月を迎えることができました。